【※2020年10月12日にスポーツ報知のECサイトに掲載された原稿です。
サイトでの公開が終了していたので、こちらに加筆・修正して再録しました】
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『泣きたい私は猫をかぶる』(以下、『泣き猫』)が、小規模ながらも劇場公開される運びになった(注:2020年10月の情報です)。めでたい。
もともと春先に劇場上映予定だったものが、コロナ禍の影響でNetflixでの独占配信へと切り替わった作品だ。国内はもとより、海外でも再生ランキング上位に食い込んだようで、良判断だったと思う。
とはいえ、やはり制作中に想定されていた形で観られる機会があるのは、作り手にとっても観客にとっても喜ばしいことだろう。せっかくなので、配信開始からは少し時間が経ってしまっているが、今月は『泣き猫』について少々ホウ言したい(※注:連載のタイトルが「アニメライター・前Qの『今月のホウ言』」だった)。
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『泣き猫』は、2018年劇場公開の長編アニメーション映画『ペンギン・ハイウェイ』が高い評価を受けた、新進気鋭のアニメスタジオ・スタジオコロリドの長編アニメーション第2作だ。監督はベテラン・佐藤順一と、これが初監督作の柴山智隆が共同で務めている。脚本は岡田麿里。
物語の主人公は、底抜けに明るく奇抜な言動で、クラスメイトから「ムゲ」(「無限大謎人間」の略)と呼ばれている、中学2年生の少女・笹木美代。美代は、クラスメイトのクールな少年・日之出賢人に連日熱烈なアプローチを続けているが、その方法が出会い頭にヒップアタック、発言に対して「エロい」を連呼など、まともなものではないため、あまり相手にされていない。
家庭の事情は複雑だ。美代の母親は身勝手な理由で家を出て行ったのだが、美代のことは「愛している」のだといけしゃあしゃあとのたまい、しばしば連絡をよこす。父親は年若い女性とあっさりと再婚し、美代のいる家で同居を始める。父の再婚相手である義母は美代に対して優しいものの、どうしても腫れ物に触るような態度にはなってしまう。そうした状況の中で、美代は身近な大人の誰に対しても軽く不信感を抱いているが、それを内に秘め、表面的には穏やかに過ごしている。
そんな彼女には秘密がある。
夏祭りの夜、人語を話す怪しい猫から受け取ったお面の力で、猫の姿に変身できることだ。
秘密の力で猫の姿になった美代は、通い猫として日之出の家に出入りし、「太郎」という名前で可愛がられている。太郎というのは、日之出がかつて喪った愛犬の名前であり、美代が変身した「太郎」の前でだけは、日之出は内に秘めた気持ちを素直にさらけだすことができる。
素性を隠したまま、「太郎」として、日之出の心に触れれば触れるほど、ますます思いが募る美代。人間の姿でも、少しずつ、不器用に距離を詰めていくのだが、とある出来事をきっかけにして、美代の心は深く傷ついてしまう。
そして、もはや人間でいることの意味を見失った美代は、完全に猫として生きることを選択するのだが……。
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こうして長々と説明したのは、今作の最大の魅力であり、逆に、鑑賞時のハードルとなりかねないのが、美代の人物像だからだ。
アニメーション、とりわけ長編作品においては、主人公に感情移入できるかどうかが、昨今の観客の評価を大きく左右しがちな印象がある。
感情移入……いいかえれば、「愛される子」であるかどうかがポイントなわけだが、美代は「愛されかた」を知らない子として描かれている。愛されたいのに、その気持ちをどう表現したらいいのか、よくわかっていない。そして、同時に「愛しかた」もよく知らない。
作中の人物にだけではなく、観客だけが目撃できる、ひとりきりのシーンやモノローグですら、感情表現が不器用だ。「悲しい」「うれしい」「寂しい」といった、わかりやすい表現の形をとらないのに、気持ちの出力自体は激しい。
しかし、振り返れば思春期のころとは、そんなものだったような気がする。アニメで描かれがちな、明るく、素直で、愛しやすい、記号的な少年少女の人物像に、私たちの感覚が慣れてしまっただけで、中学生なんて実際のところは、もっと、もっとめんどくさい存在だったのではないか。
そうした難しい主人公を描くことに、果敢にチャレンジした。それだけで、今作には大きな価値がある。
私はくわえて、映画を観終えたときには、しっかりと感情移入できるだけの説得力のある展開と、繊細で力のある映像表現があると感じたが……そこはぜひ、実際にその目で確認してみてほしい。
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以下は余談。
佐藤順一は近いタイミングで公開された劇場長編作品『魔女見習いをさがして』でも、等身大の20代の女性3人組という、アニメでは珍しい造形の主人公たちを中心に据えたドラマを展開している。
また、感情移入しづらい主人公といえば、近年の話題作で真っ先に連想してしまうのが、4歳児の内面の嵐を描いた細田守の『未来のミライ』。
その細田は、是枝裕和との講義で、東映アニメーション出身の監督には、どこか「公共」の意識がある……というようなことを述べている(『映画の言葉を聞く 早稲田大学「マスターズ・オブ・シネマ」講義録』、フィルムアート社)。それは営利主義、商業主義を意識しつつも、それとは違う軸を監督作に盛り込む発想のようだ。
そうした視点を持ってみると、『未来のミライ』『泣き猫』『魔女見習い』が一本の糸で繋がるような気もしてくる。そしてこれは、『この世界の片隅に』の片渕須直を始め、近年さまざまなクリエイターが口にしている、日本のアニメ企画の「多様性」の問題にも繋がるように思えるのだが……話が大きくなるので、このあたり、またの機会に。
では、今月はこんなところで。
■以下、転載にあたっての補記
「そうした視点を持ってみると、『未来のミライ』『泣き猫』『魔女見習い』が一本の糸で繋がるような気もしてくる」と2020年の私は書いていたわけだが、先日配信・劇場上映の始まった『雨を告げる漂流団地』も、この糸に繋げられる一作だろう。
『雨を告げる漂流団地』の主人公は小学6年生の少年少女で、多くのアニメに登場するその年代の子供たちのように妙に幼かったり、逆に大人びていたりするところのない、等身大の描き方をされている。
くわえてメインのふたりは、「団地育ち」という若干特殊な背景を持っており、それが作劇上で深い意味を持たされている点も印象に残る。
なお、今作には佐藤順一が「クリエイティブアドバイザー」というクレジットで参加している。どのような関わり方をしていたのか、現時点で私は特に情報を持っていないが、参考情報として附記しておく。
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これまで石田祐康監督作品の技術レベルの高さや、込められた熱量に驚嘆はしつつも、いま一歩のめり込めずにいた私なのだが、『雨を告げる漂流団地』は非常に楽しめた。というか、傑作だと思う。
そのうち、稿をあらためて論じてみたい。
【2022年9月23日追記】
書きました。